ドアはなぜあるのか? 誤解されている方がいると 思いますが、 閉めるためにです。 閉める必要がないのなら、 「穴」にしとけばいい。 ドアを開けときなさいと叱られなくても、 ちゃんと閉めなさいと叱られます。 閉まらないと困るのです。 家に帰ります。 ドアを開けて家へ入ります。 そしたら最後はやっぱり 閉めるのです。 だけど、開けるためのドアが あるんです。 そう、「どこでもドア」です。 開けて、どこかに行くためのドアなんですね、 これが。 閉めちゃうとまずいことも多々あるんです。 開けるためのドア!! 始めるためのドア!! こんないかしたドアもそうそうないでしょう。 いつでも心にどこでもドアを!!
まわるというのは、ある種奇跡だ。 世の中はまわることによって成り立っている。 仏教の輪廻転生もうまれるべくしてうまれたのだろう。 焼き物は回るろくろの上で、ほぼ左右対称の壷ができる。 止まった台の上ではあそこまできれいに出来ないだろう。 コマは回ることによって一本足で立つことができる。 とまったコマは立つことができない。 地球は回るから夜と昼がある。 地球は周るから季節がある。 時計は針が回って時間を刻む 砂時計は砂が落ちきると止まってしまう。 そもそも物質は核の周りをまわる原子で なりたっている。 回るということはすなわち「永遠」だ。 回るということは「動き」、 つまりは「変化」。 ヒトもモノもまわっていく。 まわっていく。 まわる。 まわるというのは、ある種奇跡だ……。
鶏が先か、卵が先か。好き嫌いは食わず嫌いか。 上手いから経験するのか、経験があるから上手いのか。 ある食べ物が嫌いな人は、嫌いだから食べないのか。 食べないから嫌いなのか。 逆にある食べ物が好きな人は、好きだから食べるのか。 食べるから好きなのか。 大体は食べる(た)から好きなんだと思う。 僕は高校まで納豆だめだったが、高校の時3回ほどチャレンジして 克服。大学時代の朝飯は納豆ご飯を食べ続けた。 つまり行動が嗜好に先行してるんだよな、結局
70とか80とかになって死ぬときに、僕は自分の人生をどう思えるだろうか。 「結構充実してたなぁ。あ、自伝も書いておけば結構売れたはずだ、しまったなぁ」 とか思えるような人生が送りたいものです。 さて、(そのためには)どうしよう。
出会いにはやはりタイミングというのもあると思う。出会いが出会いになるためには 遭遇を出会いと認知する必要があるからだ。僕がNIRVANAに出会ったのはやはりあの 頃だったからだと思うし、ピアノの練習が続かなかったはあの頃だったからだと思う。 僕はリアルタイムで通ってないけど、尾崎豊に出会った人は、やはりあの頃でないと いけなかったんだろうと思う。10年後、20年後に遭遇しても出会いにはならなかったんだ と思う。 日々の生活でも様々な遭遇を出会いとして処理せずにやり過ごしているんだろうか。